石清水八幡宮と大石内蔵助

  • 2017.12.15 Friday
  • 17:17

12月14日は、討ち入りですね。

あまり意識せずにいたのですが、昨夜のお茶のお稽古で、討ち入りのお軸がかかっていて、

思い出した次第です。

厳密には14日夜中から日付が変わり15日の午前4時ごろと言われているので、

今日の記事にするのはぎりぎりセーフでしょうか。

 

 

歴史上高名な人物は、石清水八幡宮とほぼ関わりがあると言っても過言ではない、と聞いたことがあります。

討ち入りの大石内蔵助もそのひとり。

 


 

この絵図は「八幡山上山下惣絵図」で、江戸時代中期(18世紀中頃)の石清水八幡宮・男山の様子です。

明治時代の廃仏毀釈ですべて取り壊されてしまったのですが、

このころはたくさんの坊が描かれています。

男山四十八坊と言われ、その数は増えたり減ったりしながらも50ほどあったようです。

さぞにぎわっていたことでしょう。

 

 

そのうちの一つ太西坊は、御本殿の北門からすぐのところにあります。

 

 

太西坊の住職、専貞は大石内蔵助良雄の実弟でした。

大石内蔵助良雄が江戸に下向するとき、太西坊に立ち寄り、

仇討ちの大願成就を石清水八幡宮に祈願したといわれています。

 

太西坊の住職を専貞のあとに継いだのが覚運で、

覚運は大石内蔵助良雄の養子(叔父の子)でした。

覚運の墓はもみじ寺として知られる善法律寺にあります。

 

 

この墓が発見されたのは最近のことで、他のお墓と一緒になっていたところを善法律寺のご住職によって

太西坊の二ツ巴の紋をつけて整備されました。

 

江戸期の地誌、「男山考古録」には、覚運が赤穂浪士討ち入りに助力したことが
明記されています。

 

 

 

太西坊の灯篭は石清水八幡宮一の鳥居の前に2つ残っています。

 

 

 

宿坊というのは、遠くから石清水八幡宮を参拝された旅人を泊める宿泊施設をもった坊のことで、

この宿泊費を坊の維持費に充てていたそうです。

 

 

灯をいれるための階段つき。

当店より一番近いところにあるのが太西坊の灯篭です。

 

 

 

 

 

これらの灯篭は、もちろん当初は太西坊の場所にありましたが、

明治時代の廃仏毀釈に伴いこの地へ移築されました。

 

石清水八幡宮の御本殿へ向かう参道にずらりと並ぶ石灯籠も男山にあったそれぞれの坊から

移築されたものです。



 








こちらは松花堂昭乗がすごした瀧本坊からうつされたもの。

瀧本坊跡は、今も男山中腹に残っています。

 

IMG_8071.JPG

 

2010年の発掘調査で、ここにあった閑雲軒が空中茶室の構造であったということが判明したのは

記憶に新しいところです。

崖部分に柱の礎石が多数見つかり、書院部分には、良好な状態で泉水(池)も見つかりました。

当時の松花堂昭乗の生活がよみがえるようです。

 

参道を歩み進めると、足利の祈祷所であった橘本坊や

 

IMG_8062.JPG

 

IMG_8061.JPG

 

家康の祈祷所であった豊蔵坊など、

 

IMG_8057.JPG

 

建物はすべて取り壊され、石灯籠は参道へ移築され、本尊、仏様などもあちこちのお寺に移されたり、

壊されたり、行方が分からなくなったりと、実際の坊跡には石垣にしか面影を見ることはできませんが、

歴史を揺るがした人物のエピソードやロマンは、今もここにたくさん詰まっています。

ケーブルで上がっておりるだけだと味気ない参拝だと私が言うのは、こういうことです。

やはり昔の人と同じ、石段を歩いてみてこそ、楽しい発見がたくさんあるのです。

看板も最近設置されましたので、読みながら楽しんでみてください!

 

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